吉増剛造さんについて

吉増剛造さんについての個人的な記録

吉増剛造さんについて㉔

 

2021年11月20日発行『詩とは何か』のなかで、吉増剛造さんが来年夏ごろに刊行予定のエッセイの話しが出ていた。

また、来年には待ちに待った映画『眩暈vertigo』が公開になるだろうし、2月からはYouTube配信も再開される予定だ。

『詩とは何か』を手に取ってから1週間余り、読んで休んで時には表紙や厚みの醸し出す表情を見つめて、日々を過ごした。そこには吉増剛造さんの六十余年の詩の言葉と図形の変貌が詰め込まれていた。

まだまだ未完成、道の途中と語る詩人の来年に心を馳せる。

そして、運が良ければ劇場で自分の声を聴き、エンドロールに流れる名前を見ることが出来るだろう。

 

 

 

 

 

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吉増剛造さんについて㉓

 

吉増剛造さんの著書『詩とは何か』の中では、ご自身の詩作についても語られていて、その中で衝撃の告白があった。

 

引用//   最近わたくしは、細かい日常的な記述を、詩作のプロセスとしてきたんだなと思うようになりました。必ずしもテーマがあって、何かを提出しようとして書くもんじゃない。……(中略)ものすごく細かい、どうでもいいような、ごみみたいなところに謎があるというのを本能的に知ってるのね。観念や頭から行くんじゃなくて、その辺のごみから行く。最初からそう。それは書くことが何もないということとも結びついています。p223

"書くことが何もない"この衝撃的な言葉について、深く考えさせられた。

"書くことが何もない"状態から六十年以上書き続ける。その行為の奥行きの深さ。実際、わたしも日常のほんの些細な欠片が詩に成り得ると知ったのが十年と少し前、小池昌代さんの詩に出逢った時だった。それ以降、自分自身も日記を書くように言葉を紡ぐようになっていった。物語りではなく、生々しい地声の言葉として。プラス突発的な心の動きの記録。心が動かなければ書く行為に昇華できない。

本書のなかでは、いよいよ吉増剛造さんの詩作の核心に話が及ぶのだが、そこでは詩集「石狩シーツ」の話しが出てくる。わたしの育った場所であり、吉増剛造さんとのご縁をくれた場所である。そして、吉増剛造さんの我が詩的自伝「素手で焔をつかみとれ!」にも書かれていた詩との出逢いについても振り返られていた。

そして、最終的に「詩とは何か」について、吉増剛造さんの現在地から話して下さっている。その核心について、受け取り方は千差万別と思う。唯、わたしにとっては「詩とは何か」=「何故吉増剛造さんに惹かれるのか」の答えを見つける事が出来た一冊であった。

 

 

 

 

 

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吉増剛造さんについて㉒

 

この10年、わたし自身の綴る言葉が詩であるのかどうかをずっと問うて来た。即ち、「詩とは何か」である。

この度の吉増剛造さんの著書「詩とは何か」はわたしにとって正に今と言うタイミングだった。

一度ゆっくり通読してみて、わたし個人の感想としては【第二部 詩の持つ力とは何か】が圧巻の面白さだった。

 

引用//    詩の「きれいな」形を拒むのはなぜなのか。それはわたくしめの中に、「直線というのは存在しない抽象的なものである」という考えが根強くある。p179

 

日本人の多くが持つキレイな美意識、わかりやすい絵画や詩にわたしは何故か惹かれない。しかし、こどもの発する粗野な絵画や言葉にはハッとさせられる部分があって、この吉増剛造さんの言葉はとても腑に落ちた。そして、4年前のわたしの日記に「自然の中に直線はない」とあった事も偶然の合致である。

 

 

引用//   これは朔太郎が見事に言ったことですが、わたくしたちは、まさしく未完成を目指している。それが自由詩の夢のような領土である、と。p190

 

 

途中、ショパンの話も出て来たので、17,18才の1番多感な時期に深く、深くわたしの内臓化しているショパンの曲を聴きながら、改めて気づいた。「革命」の唐突な終わり方にものすごく惹かれる。人間は間違える、誤ることで生まれる注視力の向上があって、音楽に限らずスケート等でもそうだが、滑らかにスムーズに進行している時よりも、躓いてしまった後の方が見ている方は興味を惹かれてしまう。人は続きを求めてしまうし、未達成感がまた次のステップへと人を運んで行く。これもまた実に身に染みて思う事である。

 

 

 

 

 

 

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吉増剛造さんについて㉑

吉増剛造さんが『詩とは何か』を出版された。予約してから頁を展くまで、わたしにとって"詩とは何か"と想いを巡らせていた。

その時にふと思い浮かんだのが、鴨川で赤いバケツと赤い紐を使って詩的な風景を作り出していたカニエ・ナハ氏の姿である。「詩よりも詩的なものに憧れる」「詩的な風景の一部になりたい」と語られていたカニエ・ナハ氏。それは「詩に対する憧れ=恋愛感情のようなもの」を持ち続けておられる吉増剛造さんと非常に近いと言える。詩的とは、異常性とかある種の非日常性を含む場面である。テーブルに置かれたアボカドを2つに切り食する時、それがどうなる事が詩的となるのか、と今目の前にあるアボカドを見て思う。アボカドに刺さったままのナイフ、あるいは赤い唇に咥えられた鮮やかな緑のアボカド……。刺激的な非日常性でなくとも、葉の1枚も残っていない白樺に透けた夕陽が当たっている様や誰も何もない部屋の真ん中に青虫がいたとしたらどうだろう。

そう考えて行くと、詩とは色と光と動きが間違いなく関係してくる気がする。関係してくると言うよりも、結びつきやすい、イメージしやすい、と言う事だろうか。

吉増剛造さんの立ち居振る舞いすべてが詩的に感じられるのは、詩に対する憧れの具象化のように思う。

まず、このようなイメージを膨らませながら1頁目を展く。

 

 

 

 

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吉増剛造さんについて⑳

吉増剛造さんのYouTube配信#Smoky Diaryが、本日終了した。

【葉書ciné】から通算82回約1年半の間、一度も欠かす事なく配信し続けて頂いた事に心より感謝申し上げたい。

そして、又嬉しいお知らせがあった。来年2月頃よりYouTube配信を再開予定との事。嬉しさで少し視界が滲んだ。

今朝、最終回の配信通知とほぼ同じ時刻に、映画『眩暈vertigo』のダイジェスト版が出来上がったと井上春生監督よりメールあり。そちらも感激しながら拝見させて頂いた。

 

この1年半、吉増剛造さんと共に時間の甘味処にてしばしの憩いの刻を味わう事が出来、ほんとうに生きる糧となっていた。

 

 

 

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吉増剛造さんについて⑲

 

 

 

 

東京国立近代美術館の展覧会では、膨大な量の声テープが展示されていた。詩、インタビュー、対談、記録、ets……吉増剛造さんが録り続けて来られた物である。

何度かお会いし、身振り手振り佇まいを拝見していて、いつも思うのは「ずっと回っている」と言う印象である。吉増剛造さんを記録している見えないカメラがずっと回っている。どの角度からでもどの瞬間でも、常に全身詩人の吉増剛造さんがいらっしゃる。生きておられる限り、詩人でない瞬間はない。

それが如実に現れている映像記録のひとつに、『Edge 吉増剛造編 心に刺繍をするように』がある。たった3分余りの映像の中で、例えばカメラを構える時、例えば大きな鞄を持ち歩く時、例えば島人の唄に耳を傾ける時、吉増剛造さんを撮っている吉増剛造さんの眼がある。俯瞰が際限なく繰り返されている。

それは、詩人田村隆一氏にも共通する様に思うが、田村隆一氏は"ひとり"と言う影を振り払い振り払い生きた方だと感じる。

 

 

 

 

<以下、引用>

発信地不明/吉増剛造


水銀が沈んだ日から光がさしはじめた。梨の木も二十年ぶりにハッシと音をたてて裂けた。New YorkであろうかKamakuraであろうか、光がさしはじめた。その発信地は判らない。なぜなら田村隆一氏は死語の堆積するこの大地には住所を持たぬのだから。日付変更線のあたり、やがて処女地がみえてきて、そこでは我々は裸足の、砂だ。田村隆一は沈黙。我々はおしゃべりな裸足の砂だ。光がさしはじめ、「新年の手紙」が渚に置き去りにされている。「四千の日と夜」のはるかなかなたから、手紙は光年の束となり、砂地に投げだされた!


田村隆一詩集「新年の手紙」の帯より

 

 

 

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吉増剛造さんについて⑱

吉増剛造さん関連の書物で、よく読み返す物の一つに『吉増剛造──黄金の象』がある。

冒頭、吉増剛造さんと大岡信氏の対談がある。その中で、安東次男氏の俳句

そもそものはじめは紺の絣かな

について語られているが、この句は非常にわたしの心に攻め入ってくる。

吉増剛造さんは、"俳句を超えた、とんでもない精神、危機の精神の表れ"と仰っている。

わたしは、この句を見た瞬間頭を殴られたような衝撃で、何年経っても事ある毎にこの句に立ち返る。それは何故か。

初めて吉増剛造さんの詩に触れた瞬間と同じ匂いを感じるからである。

理屈ではなく、感受するもの。

ささやかな言葉の下に奥深く掘り下げられた落とし穴があり、わたしたちは気づかぬうちに底へ底へと入り込んでいる。

あの暑い夏の日、わたしはわたしの包帯を発見したのである。

 

 

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