吉増剛造さんについて

吉増剛造さんについての個人的な記録

吉増剛造さんについて⑭

 

2020年3月20日

当初の予定から2日遅れではじまった
【しごとバー】詩人の生き方ナイト


銅板も金槌ももたずにスタンバイしておられる吉増剛造さんを思い浮かべながら、楽しみにお待ちしておりました。

映し出された手元には書物とペン。そして、お元気そうなお姿と茶目っ気たっぷりのお話しを伺いながら、わたしの頬は緩みっぱなしでした。

六十年以上の詩との付き合いのなかで、いままで生きてこられた術や詩に対する想い(まるで恋愛感情とでもいうような)を述べておられました。

今回は触れておられませんでしたが、吉増剛造さんの著書「素手で焔をつかみとれ!」のなかで生い立ちについて印象深かった一節があります。

小学生の時に詩を書く時間というのがあり、吉増剛造さんはタイプの全く違う詩を三篇書かれ、「この子できるな(ご自身のこと)」と手応えを感じられました。そして、国語の先生も先生という枠を超えて、その魅力に感嘆された。それが最初に書かれた詩だったということでした。

また、札幌芸術祭のライブ前にパフォーマンスと語りの時間を取っていただいた折に、ご自分の作品を石狩河口へ持っていって三百枚くらい燃やしちゃったと仰いました。

「初めから終わりまで、、、書きはじめるから滅びていくところまで、じぶんで全部やろうとし始めたんだ、、、うん、言えた。これで言えた。」

あの時、その告白に立ち会えたことはとても崇高で得がたいものを目撃した瞬間でした。

そして、約二年前の『火の刺繡』完成イベントの折に「現代詩なんて難解だヘチマだなんて言われて苦労している」と一瞬の鋭い眼差しで発せられた言葉は、今まで戦ってこられた大変さを垣間見せてくださったのだと思います。


鏡に映った自分の顔(皆が見ているのとは真逆の)を見ているような、目を瞑って愛するひとのボディラインをなぞっているような、水で書いた文字の解脱のような、微熱のある旅人のような、駆け上がるそばから消えていく背後の階段のような、それらすべてが宇宙に浮かんでいるような、誠に不思議な吉増剛造さんの魅力に取り憑かれています。

それは、文字だけでなく、お話しの様子や仕草からはより一層魅力的に、パフォーマンスでは見る者に強い生命力を頭からぶっ掛ける、映画の主人公としてはただ歩いているその姿が信じられないオーラ(生体が発散するとされる霊的な放射体、エネルギー)を発散しているのです。

それは、わたしにとっては生きている絵画のようだと思っております。


いま、製作中の映画『眩暈 Vertigo』は吉増剛造さんの盟友故ジョナス・メカスさんと、そこに立ちあがる未知の通路を記録したものになるようです。

どうか無事に完成して、待っている方々のもとへ届きますように。

 

 

 

2020年3月25日記

 

 

 

 

 

 

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